kanizaのブログ

コンピュータ、ソフトウェア、映画、音楽関連や家族のことなど、思いついたことを書きます。

David Bowieの「Is It Any Wonder」

デヴィッド・ボウイの「Is It Any Wonder」というEPがApple Musicにあって、わりとよく聴いている。Apple Music上は「1997年」とあるし、トラックにも「Stay '97」などがあるので97年に出ているのかと思って、「当時ぜんぜん知らなかったなぁ」と調べてみたらWikiepdiaには2020年リリースとあった(ボウイ自身は2016年に死去)。

en.wikipedia.org


97年といえばかなり熱心にボウイ情報を追いかけてた時期。仮に日本で発売されてなくても、情報くらいは入ってたはずだからおかしいと思った。

「Stay '97」もいいし、「Baby Universal '97」も最高なんだよねー、と思いながらトラックリスト眺めたら[2020 Remaster]なトラックがあった。2020年ですね、はい。

youtube.com

食事中のテレビを消す

家族で外食すると会話がはかどる。

その要因のひとつが「お店にはテレビがない」ということだと思っている。家で食事をするときにテレビがついていると、どうしてもテレビに注意力をもっていかれるし、会話しなくてもテレビが話しているのでなんとなく会話が生まれにくい気がしている。

じゃあテレビを消せばいい。まったくそうなのだが、テレビを消すとシーンとしてしまうので、それはそれで違う。会話は生まれるが、会話がない時間の静寂が不自然に感じる。

じゃあ音楽でもかければいい。まったくそうなのだが、これまで我が家にある単体スピーカーといえばAmazon Echoくらいだったので、音質やら使い勝手やらでそれで音楽をかけようという気にならなかった。Apple TVでApple Musicをかける手もあるが、それだとテレビをつけないといけないんだよね。光って動く平面(テレビの画面)があると、それに気をとられてしまって微妙に会話の妨げになる。

そこにやってきたのが、我らがサウンドバーだ。音質的にも価格的(?)にも「これで鳴らせれば満足」というアイテム。もともとはテレビの音を出すために買ったわけだけど、簡単にBluetoothスピーカーになる。

「さぁメシだ」という時に、テレビは消したままサウンドバーをBluetoothに切り替えて、手元のiPhoneを接続。Apple Musicでジャズのプレイリストあたりをかければ、なかなか雰囲気が出る。シーンとした寂しさもないし、気になる画面もない。すばらしい。

大事なのは、自分が好きな曲を選んだりしないこと。「次に何をかけようか」みたいなDJモードに入るとそちらに注意が奪われてよろしくない。あくまで食事のときの環境音楽として良さげなプレイリストやラジオを流しておけばいい。

そういうわけで、家で食事する時の雰囲気がとても良くなった。予想外の効果。

まぁね、これまであった機器でも食事中にテレビなしでiPhoneからBluetoothApple Musicを流すことはできたのはできた。でも、その機器のイメージや目的とか、ちょっとした使い勝手とかで実際にそうするかが変わってくる。そういうもんだよね。

サウンドバー

一年ほど前にリビングのテレビを新調した。初めてのREGZAで操作性や映像等々には満足したんだけど、スピーカーでちょっと気になることが。

音質は上々でありつつも、後ろ向きに音が出る設計になっており、どちらかというとテレビの後ろ側にいたほうがよく聞こえる。後ろが壁とかなら問題ないのだろうが、ウチはテレビの後ろは別の部屋みたいになっていて、テレビが部屋の区切りみたいな役割も担っている。だからテレビの後ろ側の部屋(的なところ)にいると、やたらテレビの音がよく聞こえるという状態になってしまった。

それがイマイチということで、テレビのヘッドフォン出力からポータブルスピーカーを左右2つ接続して使っていた。基本的にはいいのだけど、アナログ出力なのがちょっと気になっていたのと、アナログなせいなのか何なのか、たまに音が割れるように聞こえたり、左右のボリュームを合わせるのが面倒だったり、左右それぞれに電源が必要だったりという問題もあった。

我が家は音楽や映画好きなこともあり、けっこう前からサウンドバーについて考えてはいた。なかなか踏ん切りがつかずにいたのだが、コツコツためているAmazonポイントがたまったこともあり、DENONDHT-S217Kをエイヤと注文した。といっても、いちおうサイズとか機能とかチェックはした。サイズはテレビの前にギリギリ置ける。そしてせっかくなのでDolby Atmos対応にした。

Amazonポイント行使でさほど痛みを感じない出費で買えた。気分の問題でしかないけど、気分重要なので。

2日ほどで到着してさっそく接続。けっこうデカい。

ウチのREGZAHDMI 1がeARC(enhanced Audio Return Channel)になっているのでそこから音声信号が出る。サウンドバーのeARC入力にHDMI 1からケーブルで接続して、これまでHDMI 1に入力していたBlu-rayレコーダーをサウンドバーに接続した。これで、テレビでどの入力機器を選択しても、音声出力がHDMI 1のeARCからサウンドバーに入力されて、音が鳴るというわけだ。

試してみると、さすがに音がいい。

サウンドバーにはインジケータがついていて、その時の入力音声フォーマットがわかるようになっている。Dolby Atmosの場合は青く光るはずなのだが、Apple TVでDolby Atmosな音楽や映像を流しても青くならない。むむ。

どうやら、テレビもAtmosに対応してないとダメっぽいのだな。まぁ、Dolbyってだいたいそういうもの(最初から最後まで対応してないとダメ)だというのを聞いたことがあるので、仕方ない。ただ、Apple TVを直接サウンドバーに接続すればいけるはず、と試してみたら、ちゃんと青く光ってDolby Atmosになった。めでたしめでたしなのだが、それだと当然テレビからの音を出せなくて不便なので、普段使いはあきらめるしかない。「どうしても空間オーディオを楽しみたい」という時だけ、接続しなおせばいい。正直、違いもあんまりわからんし(あーあ)。

何はともあれテレビから出る音がよくなって、音楽や映画を楽しむ気分がだいぶ上がったのでめでたい。

デジタルつまみ、アナログつまみ

居酒屋のメニューの中で、餃子や串カツ、鶏の唐揚げなどは離散的でデジタルつまみといえる。一方で、ポテトサラダやホッケの開き、麻婆豆腐は連続的でアナログつまみといえる。

人数や関係性、腹の空き具合によって、うまく注文しわけていきたい。

可算つまみ、不可算つまみというのもいいかも。

ドラマ版「三体」を見た

WOWOWオンデマンドで配信されている「三体」のドラマを見終わった。

小説の「三体」は三部作ともに読んだことがある(メモによると2022年の夏だったようだ)。最初けっこう難しいと感じたものの、どんどん面白くなっていって第二部・第三部の盛り上がりは本当にスゴかった。スケールでかすぎ。

このドラマは三部作の第一部を映像化している。第二部・第三部に比べれば第一部は映像化しやすそうではあるが、それでも難しいところを見事にやってのけている。不満ゼロといっていい。映像で見たおかげで原作をより理解できたのでありがとうございますといった気分だ。

「三体」は中国人作家である劉慈欣による作品で、舞台も基本中国。登場人物も中国人の名前になっている。僕は中国の小説を読み慣れていないので、小説では名前から人物イメージがわきにくかった。たとえば主人公は「汪淼」なんだけど、まず読めない。最初は仮名がふってあっても、ずっとあるわけではないから記号的に「汪淼」を認識していた(ちなみにワンミャオと読む)。読めないし、漢字としての意味もわからないからイメージつかないんだよね。英語の「ジョン・マクレーン」とかだったら、まぁ、わかりやすいんだけど....ごめんなさい。

それが、映像だと見事に具体化されるわけです。小説の段階で自分の中のイメージがはっきりしていると実写版で落差が生まれてガッカリとかあるけど、小説ではモヤモヤしていたので「そうだったのか」と、「正解」を見れたような気になった。

もしかしたら、このドラマ版を見てから原作を読んだほうが楽しいかもしれない。ちなみに主人公の汪淼が友人に似ているのでずっと「似てるなー」と思いながら見ていた。

予告映像はこちら。

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これとは別にNetflix版も制作されていて、3月に配信開始とのこと。こちらも楽しみだが、舞台が中国ではなさそうだし、けっこう原作とは違う感じになりそう。あと第一部だけではなさそうな雰囲気もある。予告編はこちら。音楽がレディオヘッドの「Everything In Its Right Place」(のカバー)ですな。

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レディオヘッドといえば、Apple TV+にある「サイロ」の予告編の音楽が「Exit Music (For a Film)」(のカバー)なんだけど、ドラマ内では流れないし、YouTubeにある予告編でも別の曲だし、サウンドトラックにも含まれていないのでモヤモヤしている。

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話が逸れたが、とにかく三体はスバラシイのでみなさんもぜひ。

月刊MacPowerのなつかしい記事たち

月刊MacPower

Macintosh 40周年で懐しい気分になった流れに乗って、かつて愛読していた月刊MacPowerを中古で入手。1992年11月号、1993年の6月号と11月号の3冊。なつかしすぎる(自分で買った分はもうどこかへ行ってしまった)。

現在も活躍している林信行さんや掌田津耶乃さんの記事もあるし、編集長・戸島国男さんの連載「それは、世間によくある話」もある!

いまのようなネットもない中、戸島さんの連載は毎回楽しみにしていて何度も読んでいた。かなり影響を受けていると思う。

記事には漢字Talk 7やPowerPC、Taligentの話や、Appleレイオフのニュースとかが載っている。そしてHyperCard関連の記事が多い。HyperCardは最高。

HyperCard気分が盛り上がったので、かのアラン・ケイがQuoraでHyperCardについて言及しているのを載せておく。Webがどのように使われるかのモデルとすべきだったというお考えのようだ。

qr.ae

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「トランスジェンダー入門」を読んだ

トランスジェンダーについては家族の間でもよく話題にのぼっていて、僕は詳しくないのでいろいろ質問しながら話を聞いていたんだけど、なんとなく腹落ちしない部分があった。「そうは言ってもねぇ」的な理解できなさ。

この本を読んで、だいぶ理解が深まった。トランスジェンダーについては様々な意見や立場があると思うが、少なくともこの本に書いてあることくらいは理解した上で議論したほうがいいのだろうし、そのために書かれた本でもある。

まずトランスジェンダーの定義がはっきりしたのがありがたい。本書はトランスジェンダーの一般的な定義を「出生時に割り当てられた性別と、ジェンダーアイデンティティが異なる人たち」としている。以前の僕の想像は「男(女)として生まれたけど、自分のことを女(男)だと認識している人たち」くらいだったのだが、この本の定義と比べるとずいぶん雑だ。

「割り当てられた性別」という表現が重要だ。詳しくは本書を読んでほしい。

男女というのは自然で科学的で自明な区別のように思い込んでいたけど、この本を読むとそれがいかに社会的・人為的なものなのかがわかる。ジェンダーアイデンティティセクシュアリティは、少なくとも「男」「女」の2つの「点」で済むような単純は話ではなく、2次元や3次元の話でもなく、より高次元の空間で考えたほうが良さそうだ。

割り当てられた「男」「女」から外れるトランスの人たちが、いまの社会においていろいろな意味で生きづらいことは容易に想像できる(本書でも具体例が多く紹介されている)。それが少しでも緩和されたほうが良いとも思う。問題はそのためのアプローチで、トランスの人たちを割り当てられた「男」「女」の枠に収めようとするのか、トランスの人たちのあり方を受け入れる社会にしていくのか、どちらを基本とするのか。問題はどちらにあるのか。

これと似たようなことを考えたのは結合双生児を扱った「私たちの仲間:結合双生児と多様な身体の未来」を読んだ時だ。結合双生児として生まれた人はとても生きづらいけど、その問題はどこにあるのか、ということ。「なおす」必要があるのは社会の側ではないのか?という問い。

「私たちの仲間:結合双生児と多様な身体の未来」を読んだ時のことは18年前(!)に記事を書いた

世の中、単純だったらいいのかもしれないけど、そうじゃないんだよね。自分の考えや言動にも、トランスの人の生きづらさを助長するのようなものがあったんだなと、いろいろ反省した。僕らのまわりには多様な人がいる。どの人もその人らしく堂々と暮らせる社会が望ましい。僕自身や大切な人たちも、いつその立場になるかわからないしね。

最後に、よく話題になるお風呂の問題について、本書で述べられている一言を引用しておく。

これはお風呂の話ではなく、人生の話なのです。

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