kanizaのブログ

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私たちの仲間―結合双生児と多様な身体の未来

私たちの仲間―結合双生児と多様な身体の未来

私たちの仲間―結合双生児と多様な身体の未来

これは、いままで読んだ本の中でもベストの部類に入る名著だ。感動した。

日本では「ベト君、ドク君」と言えばすぐにわかるであろう、結合双生児を扱った本。彼(女)らは、双子がひとつの身体につながって生まれてくる。そのつながり方は、頭がつながっている場合、腰のあたりがつながっている場合、器官を共有している場合などいろいろある。

こういった双子を街で見かけたことはないけど、ニュースや資料でなら何度かある。いつも、それは想像できないほど重度の障害で、ものすごく気の毒に思った。身体を自分以外と共有することがどういうことなのか、まったく理解できないもんね。手術で「正常」な2つの身体に分離できたらいいのに、と思った。

当然だと思っていたこういう考え方に、この著者は疑問を投げかける。

「果たして、本人たちはどう思っているのか?」。この観点からすると、本人たちが分離を望むことはごく稀で、時には結合している状態のほうが「より好ましい」とさえ感じるのだそうだ。分離手術を受けず、結合したまま幸福な人生を送った例も少なくない。歴史的事実として、これまでに自ら望んで分離手術を受けたのは1組しかないそうだ(2003年、イランのラレとラダン姉妹。残念ながら手術中に亡くなった)。多くは、まだ幼く同意ができないうちに両親や医師の判断によって分離手術を受ける。

結合している状態のほうが「より好ましい」とさえ感じる、というのはにわかには信じがたいけれども、僕らが自分の身体の一般的に「好ましくない」とされる点について、どう考えているか想像するとわからんでもない。たとえば、「もうちょっと目がぱっちりしていたら」とか「もうちょっと鼻が高かったら」とか、いろいろあるわけだ。だからといって、それを命の危険をおかしてまで手術で改善したいかっていうとそれは全く別問題だもんね。時にはその「好ましくない」とされる部分でさえ、自身のアイデンティティとして「好ましく」思うことさえある。

「鼻の高さと、結合双生児をいっしょにするな」という意見もあると思う。じゃあ何が違うのか?鼻が低くても生活にあんまり困らないけど、結合双生児は生活に困る。これは本当か?本当だとしたら、何が原因なのか?結合していることが原因なのか?生活が困難になってしまう社会の側に問題があるとは言えないのか?「障害」とはいったい何か?「正常」とは何か?

そういうことを問う本だ。障害とは「動かない足ではなく、スロープをつけないことだ」と、社会のありようこそが原因だとうったえる。

こういった問題は難しくて、つい目を背けたくなってしまう。分離手術も、そうやって目を背ける手段のひとつではないかな。結合双生児の命の危険をおかしてまで、とにもかくにも分離最優先、それが「最善」と考えているのは、本人たちでなく両親や医師であり、社会なんだよね。それを無自覚に、単に「善意」としてすすめてしまっているところがまずよろしくない。

本文中で書かれているように、かつて、黒人や女性が「医学的見地から劣っている」という理由で差別された歴史がある。これも当時は「善意」に基づいていたのだそうだ。でも社会が発展するにしたがって少しずつ認識が変わり、改善されてきた。黒人や女性は、白人や男性とまったく同じだと言っているのではない。差異があるならそれを受け入れられる社会になる方がより健全であるという考えによって、不当な差別が少ない、より望ましい社会に発展してきたわけだ。

「でも、黒人であることや女性であることと、結合双生児(に代表される独特な身体)であることには決定的な違いがある」と思う人もたくさんいるはず。そう思う気持ちはとてもよくわかる。まったく同じだとは言わない。でも、いま独特の身体を持つ人たちが受けているものすごく特殊な扱いは「不当」ではないか。ではどう向かい合うべきなのか。社会や個人のあり方、人間の尊厳といったものについて、これまでと違った視点で考えさせてくれる。

ちょっと難しいことを書いたようだけれども、この本は意外にも明るい気持ちにさせてくれる。結合双生児の困難で不幸な人生のみではなく、結合したまま成長し、財産を築き、結婚して子供をもうけ、周囲の尊敬を受ける人生を送ったチャンとエン兄弟の例などが紹介されている。最近ではアビゲイルとブリタニー姉妹も結合したまま元気に暮らしている。ある程度まで成長した結合双生児は、それぞれが自分のありようを受け入れて、ちゃんと生きていくんだよね。これには勇気づけられる。歴史上、自ら分離を望んだ例は1組しかない。そのくらい「あり」な身体なんだよね。

この本を読みながら、中学生の頃、当時の生徒会長が書いた「青年の主張」的な作文を思い出した。タイトルは「共に歩む」。それは、彼がいわゆる「障害者」に対して、「共に歩んであげる」という憐れみ的な視点ではなく、「共に歩む」という対等な視点が大切だと感じた出来事が書かれていた。いわゆる「障害者」への配慮や支援は当然ながら必要だけど、それが本当に彼らのためになっているのか、自分の気休めのためだけになってはいないか、よく考えないといけないな。