kanizaのブログ

コンピュータ、ソフトウェア、映画、音楽関連や家族のことなど、思いついたことを書きます。

30年前の話

僕にはだいたいの人が持っている胆嚢(たんのう)がない。今日はその話を書く。

この1月に30周年を迎えた Mac 誕生は僕の人生に大きく影響したわけだけど、同じ30年前にあたる1984年の1月から3月にかけて、僕にとってはもうひとつ大きな出来事があった。

当時の僕は8歳。それまでの数年間、小児ぜんぞくはあるし、ときどき激しい腹痛に襲われるしと、入退院を繰り返すなかなか病弱な子どもだった。

あの腹痛のおかげで何度か楽しいイベントが潰れてしまったのをよく覚えている。保育園の行事で当時開業前だった上越新幹線の試運転に乗せてもらえる日、めちゃくちゃ楽しみにしてたのに、新幹線に乗る駅に向かっている途中の電車で腹痛発生。耐えられない激痛になって途中の駅で下車、タクシーでかかりつけの病院に運び込まれて、けっきょく新幹線には乗れずじまいだったのは悲しかった。

この腹痛については、近所のまぁまぁ大きな病院ではすい臓が悪いとか肝臓が悪いとか言われていて、何年もいろんなクスリを飲んだり入院したりしていた。

消化器系が悪いということなので、食べてはいけないものが多かった。とにかく油っこいものがだめで、肉系とか、焼きそばとか、おいしそうなものをいろいろ食べちゃダメだった。「ジュースは薄めて飲んでください」ということも言われていた。いま考えるとなんでかわからんけど。

入院がちだしぜんそく持ちだし、活発とは言えない子どもで、まぁ、ドンくさい感じだったと思う。

1984年1月のある休日の朝、家にお客さんが来て、みんなに出された紅茶を飲んだ直後に激痛が襲ってきて、畳の上をのたうち回るハメに。そのまま病院にかつぎこまれて、手に負えないということで日赤病院に移された。やはりデカい病院は違う。検査してみたら、胆嚢がヤバい、すぐ手術が必要、ということになって、翌日には緊急手術をすることになった。

すい臓でも肝臓でもなかったとは!

僕は胆嚢とつながっている胆管が生まれつき太くて、そこに胆汁が滞留するのか、石ができてしまっていたそうだ。その石が何かのきっかけに動くと激痛が走るというのが腹痛の原因。そのきっかけのひとつが感情の高ぶり。だからイベント前に痛くなっていたのだ。さらに、石のせいで胆汁の流れが悪くなって、胆嚢が破裂しそうになっていたらしい。後で聞いた病名は「総胆管拡張症」。いまでも健康診断では毎回申告している。

運びこまれた翌日の緊急手術は、時間の都合で「科学戦隊ダイナマン」を見られないのが気がかかりで、ビデオの録画を念入りにお願いしていたのを覚えている。

手術は無事に終了。腹からは胆汁がたまらないよう体外に逃す管が出ていたし、鼻にも管がささってた。

ダイナマンも無事に録画できたということでさっそく見たいと思った。とりあえずテレビをつけてもらったんだけど、どうしても画面の同期が狂っているようにしか見えなくてあきらめた。あれは麻酔からさめたばかりの僕のアタマがまだおかしかったのか、そもそもテレビがちゃんとうつっていなかったのか、どっちだったんだろう。

この手術はあくまで破裂しそうな胆嚢を救うためのもので、抜本的な治療のためにもう1度手術が必要だった。

しばらくして大部屋に移されて、さらにしばらく経ったころに2回目の手術。この手術で、胆嚢と総胆管をごっそりと摘出してしまうことになる。

今回はダイナマンの心配はなかったものの、けっこう大きな手術になるということで、両親は医師からいろいろ覚悟しておくようにと伝えられていたらしい。

手術は午後2時ごろからはじまって、終わったのは午後8時ごろ。6時間くらいかったそうだ。

目をさましたのは翌日だった。人工呼吸機がつけられていて、ちょっと外してみたら息が苦しくてすぐにつけ直したのを覚えている。すぐにまた眠ってしまって、けっきょくちゃんと覚醒したのは手術から2日後だった。よく寝たもんだ。うらやましい。

胆嚢と胆管を取っ払ってしまったので、腸を肝臓に直結。そのためにいろいろと腹の中のものを出し入れしたようで、腸とかが腹の中で「あるべき場所」におさまるようグニュグニュと動いているのがわかる。きもちわるい。

手術後しばらくは個室にいて、そのあとは6人部屋に移った。

病院にはいろんな患者さんや看護師さんがいて、まだ8歳の僕はけっこうかわいがってもらった。盲腸をこじらせて入院していて付き添いのお母さんとよくモメているおにーさんとか、毛糸を通した点滴の管で犬を作ってるれるおじさんとか、鳩サブレをくれたおばあさんとか、みんな僕にはやさしくしてくれた。

ただ何がつらいって、絶食がつらかった。手術後、10日くらいは何も口に入れられない。

栄養補給は点滴から。フツーに腕からする点滴だとほとんど動けないので、右肩の鎖骨のあたりから管を入れてそこから点滴していた。この管を入れるときは鎖骨のあたりから喉のあたりまでぐいぐい何かが入ってくるのがわかって怖かった。管は一度入れてしまえば何日もそのままでOK。寝返りも打てるし、点滴したままあちこち歩き回れる。点滴の袋がぶら下がったポールをガーッっと押しながらね。

点滴で栄養は補給していても、食べものを口に入れられないのでとにかく何か食べたい欲求が止まらない。空腹で機嫌が悪くて両親や周囲にあたったりしたなぁ。やめときゃいいのに「たのしいクッキング」という料理図鑑みたいな本を見まくって、「退院したらアレ食べる、コレ食べる」と夢を膨らませていた。

絶食は実際には10日かそこらだったらしいけど、8歳の僕には永遠のように感じられた。ほとんど絶望しかけたもんね。

ようやく絶食が終わるとき、まずは1日、水分だけOKになるんだけど、その日は狂ったように飴玉やガムを食べていた。絶食が終われば点滴も外れて、徐々に元気になっていった。

入院してるあいだ、たくさんの人がお見舞いにきてくれた。小学校の同級生たちが千羽鶴を作ってくれて、先生が持ってきてくれたりもした。親戚が御見舞いにきてくれたのに僕と同姓同名の別の男の子のところに行ってしまって、ちょうど本人がいなかったこともあって付き添いの方にお茶までもらって飲んでたところに本人が戻ってきてドッキリ、みたいな事件もあったな。

そんなこんなで、退院したのが3月の末だった。病院のみなさんからはお祝いの色紙をもらって、実家にはいまでも取ってあるはず。お腹には大きな手術跡が残ったけど、医師からは「何を食べてもOKだし、運動もどんどんやっていいよ」と言われた。

それから、それまでガマンしていた分を取り戻すように、何でもガンガン食うようになっていったのだった。もうじゅうぶん取り戻したのにいまだにガンガン食い続けている。当時はまさかこんなにビールキャラになると思いもしなかったな。胆嚢なくてもビールは飲める。

他にも、小学校でバスケットボールを始めたりして体も丈夫になったし、信じられないことにマラソン大会や短距離走でも上位に入るようになった。ぜんそくもほとんど起こらなくなっていって、いつの間にか治ってしまった。

そーいうわけで、Mac が誕生したちょうどその頃、病弱で入院がちだった僕が何でも食べて何でも飲むヤツになって、人生の向きが大きく変わったのだった。

「胆嚢がなくて困らないのか」と聞かれたりもするけど、それはよくわからない。胆嚢あったらもっとたくさんビール飲めてたかもしれないもんね。