kanizaのブログ

コンピュータ、ソフトウェア、映画、音楽関連や家族のことなど、思いついたことを書きます。

「トランスジェンダー入門」を読んだ

トランスジェンダーについては家族の間でもよく話題にのぼっていて、僕は詳しくないのでいろいろ質問しながら話を聞いていたんだけど、なんとなく腹落ちしない部分があった。「そうは言ってもねぇ」的な理解できなさ。

この本を読んで、だいぶ理解が深まった。トランスジェンダーについては様々な意見や立場があると思うが、少なくともこの本に書いてあることくらいは理解した上で議論したほうがいいのだろうし、そのために書かれた本でもある。

まずトランスジェンダーの定義がはっきりしたのがありがたい。本書はトランスジェンダーの一般的な定義を「出生時に割り当てられた性別と、ジェンダーアイデンティティが異なる人たち」としている。以前の僕の想像は「男(女)として生まれたけど、自分のことを女(男)だと認識している人たち」くらいだったのだが、この本の定義と比べるとずいぶん雑だ。

「割り当てられた性別」という表現が重要だ。詳しくは本書を読んでほしい。

男女というのは自然で科学的で自明な区別のように思い込んでいたけど、この本を読むとそれがいかに社会的・人為的なものなのかがわかる。ジェンダーアイデンティティセクシュアリティは、少なくとも「男」「女」の2つの「点」で済むような単純は話ではなく、2次元や3次元の話でもなく、より高次元の空間で考えたほうが良さそうだ。

割り当てられた「男」「女」から外れるトランスの人たちが、いまの社会においていろいろな意味で生きづらいことは容易に想像できる(本書でも具体例が多く紹介されている)。それが少しでも緩和されたほうが良いとも思う。問題はそのためのアプローチで、トランスの人たちを割り当てられた「男」「女」の枠に収めようとするのか、トランスの人たちのあり方を受け入れる社会にしていくのか、どちらを基本とするのか。問題はどちらにあるのか。

これと似たようなことを考えたのは結合双生児を扱った「私たちの仲間:結合双生児と多様な身体の未来」を読んだ時だ。結合双生児として生まれた人はとても生きづらいけど、その問題はどこにあるのか、ということ。「なおす」必要があるのは社会の側ではないのか?という問い。

「私たちの仲間:結合双生児と多様な身体の未来」を読んだ時のことは18年前(!)に記事を書いた

世の中、単純だったらいいのかもしれないけど、そうじゃないんだよね。自分の考えや言動にも、トランスの人の生きづらさを助長するのようなものがあったんだなと、いろいろ反省した。僕らのまわりには多様な人がいる。どの人もその人らしく堂々と暮らせる社会が望ましい。僕自身や大切な人たちも、いつその立場になるかわからないしね。

最後に、よく話題になるお風呂の問題について、本書で述べられている一言を引用しておく。

これはお風呂の話ではなく、人生の話なのです。

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Macintosh 40 周年

1984年1月24日に初代Macintoshが発表されてから、40年がたった。30周年の時のような記念サイトはなさそうだが、記念にその歴史を凝縮したようなAppleロゴが公開されている。まずは、40回目の誕生日おめでとうございます。

実は30周年の時も同じような書き出しでブログを書いた。あの時はMacとの出会いについて書いたので、今回は少し違う切り口でMacについて書く。

あれから10年たった今も、Macをメインで使い続けている。2014年はOS X 10.9 Marverickだったはずだが、いまはmacOS 14だ。数字だけ見ると3.1しか変わっていないように見えるけど、MacのOSは歴史的経緯でバージョンの呼び方がややこしく、実際には毎年のメジャーバージョンアップを重ねた結果のmacOS 14だ。

2014年の1月はまだApple Watchの発表前だった。Apple MusicもAirPodsもなかった。

僕はというと、2016年に今の会社に転職。転職後も変わらずMacを使って仕事を続けている。あとはコロナ禍で在宅勤務中心になったりとか、この10年でライフスタイルは大きく変わった。年齢のおかげで肉体も衰えるしね。いやはや。唯一良いのは、10年前に比べると体型はいくらかスリムになったということ。糖質制限

Macを通じて出会ったAppleから、いろいろなことを学ばせてもらった。1990年代半ば、誰が見ても潰れそうな状態からの復活劇、それを実現した製品開発への徹底したこだわり。特にiTunesにはじまりiPodiPhoneApple Music、AirPodsとつながる音楽方面への展開は奇跡的。他のあらゆる面でも、ソフトウェアやハードウェアを通じて人々を感動させるっていうのはこういうことか、というのを鮮かに見せてくれた。すべてが完璧じゃないし、正直どうよと思うこともたくさんあったし今もあるけど、Appleは人類の前進に大きく貢献してきたと思う。

高校生の時にパソコンマニアとしてMacに出会い、HyperCard, QuickTime, QuickDraw GX, QuickDraw 3D, OpenDoc, Cyberdog, Dylan, Copland, Rhapsody, Darwin, Cocoa, Core Data, WebKitCocoa Touch, Siriなどのテクノロジーにワクワクしながら30年くらいを過ごしてきた。いろいろあったな...。さらにCocoa勉強会やKOF(関西オープンフォーラム)、Appleプラットフォーム向けのソフトウェア開発の仕事を通じて、いろいろな人に出会うこともできた。ずっと交流が続いている友人も含まれている。

かつての牧歌的な趣味パソコンの時代からインターネット時代、スマートフォン時代をへて、いまAI時代が訪れつつあるんでしょうかね。ソフトウェアで動くシステムはすでに社会基盤になっていて、安全性や信頼性の要求はどんどん高まっているし、悪い奴らがいたずらや犯罪に使うせいで、マルウェアやらサイバー攻撃にも莫大なエネルギーをかけて対処しなくてはいけなくなっている。

いま、テクノロジーに心底ワクワクできるかというと微妙な気がするけど、人間社会の進歩にどんなことが大切で必要なのか。そこにテクノロジーが役立つ部分もあるはずなので、そういうところに僕の経験をいかせればと考えている。

うーん、こういうことを書くつもりではなかった気もするけど、まぁよし。

「私たちはどう学んでいるのか」を読んだ

rebuild.fmなどの出演で有名な伊藤直也さんがSNSでおすすめしているのを見て読んでみた。とても良かった。

理解力、思考力、コミュニケーション力など、人の知的活動への評価を「○○力」と表現することへの異論から始まり、学び、発達、ひらめきといった起こると嬉しいことについて深い深い洞察が述べられている。さまざまな教育や学習の場では、そういった嬉しいことを起こすために、あれやこれやの取り組みがなされているわけだ。

そういった取り組みって、どのくらいうまくいっているのか。

当然うまくいくこともあれば、うまくいかないこともあるんだろうけど、うまくいかない場合は「学習者の○○力が足りない」みたいな理屈で片付けられてしまったりしてそうだよね。もちろん僕もそう思ってきた。「◯◯さんは論理的思考力が足りないのかもね」とか。

いや、そもそも知的活動についての理解が違ってない?ということを考えさせてくれる。

健在意識・潜在意識の話(ヒューマンファクター)や、学校が工場をモデルにしていること(「第三の波」)、徒弟制度について(「ソフトウェア職人気質」)など、これまで触れてきた議論ともつながるところがあってそれぞれ説得力を感じた。

素朴理論による思い込みは危険ですな。

「自動人形の城」を読んだ

しばらく前に買って本棚に飾ってあったのをようやく読んだ。読みはじめたら面白くて、その日のうちに読み切った。

わがまま放題で育った王子様が、自業自得のきっかけでピンチに陥り、成長しながら克服していくというストーリー。副題に「人工知能の意図理解をめぐる物語」とあるように、この本のキモはストーリーというよりも、言語・非言語による人と人、人と機械のコミュニケーションにおける課題を描いている点にある。著者の川添愛氏は言語学者だしね。

どういうことかというと、王子はわがまますぎて学ぶことから逃げ続けてきたため、文章を書いたり言葉で伝えたりするのが得意ではない。そんな中、あることをきっかけに、言われたとおりにしか動かない自動人形を操らなければならなくなる。

もともと王子は、たとえば「腹が減った」と言えば召し使いが食事を用意してくれるような環境で育っているのだが、自動人形が相手ではそうはいかない。「腹が減った」と言っても、自動人形は「私もお腹が空きました」みたいな返事をするだけ。せめて「腹が減ったので食事を作ってくれ」と言わないと、食べものは出てこない。でも「食事」にもいろいろある。食べ物なら何でもいいのか。真冬に冷やし中華を出されたら残念な気持ちになるよね(本の実際の記述はもっと丁寧で面白く書いている)。

このへん、プログラミング経験者ならよくわかる感覚だと思う。「プログラムは思った通りには動かない。書いた通りに動く」という格言があるが、この自動人形も同じ。プログラミングというのは、人間がやってほしいことを、コンピュータに伝わる粒度・言語・構造に変換して厳密に記述する営みだ。王子は、自動人形を思ったとおりに操るために、プログラマがバグを直すような試行錯誤を繰り返すことになる。

それをAIがうまく理解してくれよ、という話ではあるが、表現された言葉の「意味」を理解することと、話者の「意図」を理解することの間には開きがあるというのは、僕が学生時代に自然言語処理をやっていたときにもあった課題だ。いま、ChatGPTは言葉のコミュニケーションについて、書いた人の「意図」をかなりの精度で当てているように見える。だが、ChatGPT的なものが搭載された「自動人形」が生まれたとき、どこまで意図を伝えて思ったとおり操ることができるか。うーん、まだ難しい問題があるように感じる。

この本、プログラミングに苦手意識がある人におすすめしてみたい。あと、自分の言葉(言語)や行動(非言語)によるコミュニケーションに自覚的になる機会を与えてくれる本でもあると思う。若い人に読んでみてほしいですな。

風景を作っていく

ある人が「風景を作っていくことが大切」という話をしていたのを聞いて、それ以来「風景」という言葉を気に入っている。

「風景」という言葉には、強いインパクトのない、あたりまえの状態である雰囲気がある。だから、大人が学び続けている風景、企業や政府など組織のトップに女性がいる風景、人々が互いに譲りあう風景、議会で真剣な議論が交わされる風景など、それが「あたりまえ」に感じられる状態を作っていくと良いと思っている。

一方で、減らしたい風景もある。たとえば、テレビで星座占いが流れて、大人がそれを見て一喜一憂している風景とか、なんとかならんものか。些細なことではあるが、そういう「風景」が、科学を軽んじる態度につながってはいないか。

新年いきなりの地震

年末年始は長岡市の実家で過ごしている。きのう 、元日の夕方に家族でスーパーで買い物をして、さてレジで会計してもらおうかという時にポケットのiPhoneが激しく振動し、警報が鳴りはじめた。画面を見ると緊急地震速報。石川県で地震が発生したとのこと。

「これは警戒しなければ」と思ったらスーパー全体が大きく揺れはじめた。ガタガタではなく、ゆーらゆーらとゆっくりと大きく揺れる感じ。幸い、棚からモノがガラガラ落ちるというほどではなかった。30秒くらいか、けっこう長く揺れてだんだんと収まった。実家には身体の不自由な父が独りでいたので、心配になって電話したところ、無事とのこと。

クルマで家に帰る途中、ラジオでNHKのアナウンサーが「テレビを見ていないで逃げて!」と切迫感満載でアナウンスしていた。過去の教訓から、どう呼びかけたら人々が避難行動にうつってくれるのか工夫を重ねてきたのだという。コトが起こったとき、実際に行動に移せるというのは相当に訓練を重ねているのだろう。すごい。

報道によると長岡市では震度6弱だったようだ。発生元の石川県では震度7。元日からやめてほしい。

一夜明けて、輪島での火災や各地の津波、建物の倒壊や道路の崩落など、被害の実態が見えてきた。僕自身は実家でいつもと同じように過ごせているが、被災した方々の苦難はまだまだ続く。

小説「フランケンシュタイン」を読んだ

メアリ・シェリー「フランケンシュタイン」を読んだ。きっかけは「100分de名著」で取り上げられていたのを見て、興味を持ってのこと。

フランケンシュタイン、その名前は多くの人が知っていると思うが、その圧倒的な知名度に比べて原作小説を読んだ人の割合が少ない作品のようだ。僕自身も「怪物くん」の「フランケン」のイメージくらいしか持っておらず、元ネタが小説なのか映画なのかなのかもよく知らなかったし、あくまで娯楽ホラー作品のキャラクターなのだろうと漠然と思っていた。

しかし原作は「100分de名著」が取り上げるくらいには「名著」であり、番組を見ても、実際に読んでも、たしかに名著であった。

3重の入れ子になった物語構造、人間の学び、外見による差別や憎悪、科学技術の功罪など、興味深いポイントやテーマがいくつもある。この作品を19世紀のはじめに19歳の女性であったメアリー・シェリーが著したというのがすごい。作中では「失楽園」や「プルターク英雄伝」といった作品(名著)が取り上げられているのだが、取り上げているということは著者は当然それらを読んでしっかり理解しているということである。彼女は「フランケンシュタイン」という深い作品に、さらなる深みを与えるためにそれらの名著に触れているわけで、19世紀にそれがどういう意味をもっていたかはよくわからないが、少なくとも今の僕の感覚では「天才」としか言いようがない。

印象的だったのは、「フランケンシュタイン」の怪物が、数々の苦難の末に生みの親であるヴィクターと再会し、まず頼んだのが「おれの話を聞いてくれ」だったこと。

ことし読んだ本の中に「LISTEN」があり、それはひたすら「聞く」ことの大切さ、そしていかに僕らが相手の話を聞いていないかを述べている本であったが、それはつまり「話を聞いてもらえる」ということもまたありがたいことだという意味でもある。怪物は、その外見のせいでなかなか話を聞いてもらえなかったわけだ。そして、ようやく再会した生みの親に「話を聞いてくれ」と懇願する。

偏見をもたずに相手を認めること、しっかり相手の話に耳を傾け、思い込みをなくして理解につとめること。それが大切だと言うのは簡単だが、では自分はできているのか。「フランケンシュタイン」はそういったことも含め、いろいろと考えさせてくれる本であった。

読み終わって、あらためて「100分de名著」を見てみた。読んだ後だとまた違った発見があるし、解説の先生の話もよく理解できた。初回に紹介される本作へのよくある誤解も面白いし、第4回(最終回)で伊集院氏が述べる、怪物の誕生と作品自体の誕生の相似形の話もとても面白い。NHKオンデマンドなどでぜひ見てみてほしい。


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